総務省は30日、総額2兆円規模の定額給付金にあわせて、129市区町村(34都道府県)で地元の商工関係団体などが、給付金の金額に10~20%を上積みした「プレミアム付き商品券」の発行を予定していると発表した。
地元の商店街などで使用できる商品券を発行することで、給付金を貯蓄や借金返済ではなく、実際に消費に充ててもらい地域振興につなげる狙いがある。
定額給付金は1人あたり1万2000円で、65歳以上と18歳以下には2万円が支給される。商品券は給付金の額に1000円~2000円程度を上積みし、給付金の額以上の買い物ができるようにする。給付金を受け取った住民が市役所や商工関係団体などで商品券を購入する。上積み分の財源は、市区町村や商工関係団体が折半するなどして負担する。
都道府県別で最も多いのは、北海道の20市町村。総務省によると、大半の市区町村では10%の上積みだが、鳥取市では20%を上積する。
製造業を中心とした雇用不安の嵐で、一気に冷え込んだ東北経済。その中でひとり気を吐いているのが、商工団体が発行する、わが町限定の「地域商品券」(地域通貨)だ。特にお得感のあるプレミアム付きの商品券に人気があり、地元からの顧客流出を防止する効果も期待されている。(中川真)
今年春に支給される運びとなった国民1人あたり1万2000円の「定額給付金」。しかし、麻生太郎首相による、国民への金の“ばらまき”というイメージが先行したためか、「生活が苦しい人の救済に充てるべき」「経済効果はあるのか」と評判は芳しくない。
一方、国会論戦で「首相はもらったら使うか」と不毛な質問に終始した野党も“五十歩百歩”といっていいだろう。むしろ、心配すべきなのは、給付金で地方が本当に潤うかどうかだ。消費されず貯蓄に回れば、経済効果につながらない。
そんな不安をよそに、元気なのが「地域商品券」。なかでもユニークなのが、岩手県花巻市の「はなまき小判」だ。厚紙製で少々頼りないが、1枚で1000円分。市内 283カ所の商店、飲食店や温泉旅館などで1人 100枚、3月15日まで使える。花巻商工会議所が昨年11月末に1万2000枚発行したところ、12月1日には完売。追加発行した8000枚も、「ほとんど残っていない」(商議所)という。
小判人気の理由は、1枚の価格が 930円で、買い物の際には70円(7%)得するプレミアムをつけたからだ。
商議所の伊藤絹子総務課長は「2年前、メンバーのイベント用に発行したところ、大人気だったので、今回は一般市民向けにした。今のところ、スーパーで約6割、温泉で約2割使われているようです」と話す。
利用者の多くは、高齢者や主婦。「1年中やってほしい」といった要望も寄せられているという。、伊藤課長も「窓口に多くの市民が来られて、商議所のPRにもなりました」とホクホクだ。
プレミアム効果はすごい。雫石町でも、商工会が昨年12月4日に 500円券12枚セット(6000円相当)の「雫石町プレミアム商品券」を5000円で1万セット発売。同町によると、なんと「約4時間で完売した」という。
額面に「20%加算」という大盤振る舞いができたのは、国の緊急経済対策の補助金を活用したためだという。
一方、“お得感”がなくても商品券が人気を博したケースもある。大船渡市では、商工会議所が昨年11月に発行した約8万枚の「大船渡地域商品券」(1枚 500円)が大人気だ。
商議所によると、「プレミアムがなくても冠婚葬祭のお返しやイベントの商品として市民に広がった」と話す。市も灯油券や生活困窮者支援の代わりに計1万8000枚を配った。
商議所は順次、追加発行していくという。
地域商品券に詳しい岩手経済研究所(盛岡市)の谷藤邦基主任研究員は、成功する商品券の「条件」として、(1)消費や需要を促せるか(2)地域外への顧客の流出を食い止められるか(3)商品券を受け取った店が、他店で使う「2次流通」に発展しているか-の3点を指摘する。
「花巻はプレミアムや期限限定によって、市民の消費意欲を上手に刺激した好例。雫石や大船渡は、地域外への買い物客の流出阻止に役立ったケース」と分析。近隣市の大型店への流出を避ける意味では、雫石のような大都市に隣接した市町村で効果を発揮するようだ。
総務省によると、定額給付金を地元での消費拡大のきっかけにしようと、支給に合わせて全国 129市区町村の商工団体などで、「プレミアム付きの地域商品券」を発行する準備を進めているという。
こうした取り組みは、今後ますます増えそうだ。財布のヒモをいかに地元で開いてもらうか、あの手この手の知恵比べに期待したい。
◇
【用語解説】先行する山形
総務省によると、東北地方では6県の計18市町村が「プレミアム付きの地域商品券」発行を計画。このうち半数を占める山形(上山市、村山市、東根市、尾花沢市、南陽市、朝日町、大江町、舟形町、三川町)の先行ぶりが目立っている。
他の5県では、青森=南部町、風間浦村、岩手=釜石市、岩泉町、宮城=塩釜市、大崎市、加美町、秋田=由利本荘市、福島=田村市となっている。
また、青森県三戸町では定額給付金の支給に合わせた「消費拡大セール」を予定しているという。
長期投資家
Thu 22 Jan’09
投資信託の時価を表す「基準価額」は、「純資産額」÷「口数」として求められます。そこで、口数を求めたい場合には、逆に「純資産額」÷「基準価額」となります。ただ、純資産額は百万円単位で公表されるため、正確な口数にはなりません。それでも、それぞれのファンドのおよその口数はわかります。口数が前月より減っていれば、その分解約されて資金が流出し、増えていれば資金が流入したと推定できます。
これは、投資信託の資金の流出入の情報が、開示までに時差があるため、次善の策として近い過去の資金流出入を推測するために使われる方法です。
ただ、口数そのものの増減を見るだけでは、どうしても規模の大きいメガファンドの動向が目立ってしまいますが、ファンドの規模に比較すると流出入した資金はさほど大きくない場合が多いのです。そこで今回は、巨大ではなくても、この状況下で資金が流入しているのはどんなファンドなのかを見るために、前述の増加口数を11月末と12月末の平均口数で割った「口数増加率」でランキングしました。(10月までにスタートしたファンドで、12月末純資産額30億円以上のもの。DC、ラップ、SMA専用ファンドを除く)。
口数増加率12月上位45ファンドの詳細なランキングをPDFで開く
正反対のブル・ベア両方に資金流入
Top5のうち3本が前回取り上げたブル・ベア型、マネープールなどでした(1月8日の当欄参照)。
第1位は、日本の株価が下落すると基準価額が上昇するベア型ファンドの「新光Wベア・日本株オープンII」(新光投信)が、口数増加率98%と、12月中に倍増しました。日本株ベア型は、6位にも入っています。
興味深いのは、ベア型ファンドとは全く逆に、日本株が上昇すると基準価格が上昇することを目指すブル型ファンドである「新光Wブル・日本株オープンII」も、増加率22%で3位に入っていることです。同じ1か月の間に、ベア型も、ブル型も売れたわけです。
日々の株価の動きが、大きく上昇や下落を繰り返すなど、乱れていることから、株が上がると目先ですぐに下がることを見越してベア型を、株が下がるとまたすぐに多少は上がることを見越してブル型を買うということでしょうか。これらのファンドは、短期で一直線に対象とする資産が値上がりまたは値下がりすると、効率的な投資となります。ですから、昨今のような値動き幅の大きい時期に、超短期で投資をして「楽しむ」投資家にとっては、便利なツールとなります。
長期投資家なら、荒海にも船出できる
こうした短期投資家の「お楽しみ」は資産形成の運用手段とは別ですが、長期投資の点から注目すべきは、その他の種類のファンドの動向です。
第2位の「欧州ハイ・イールド・ボンド・ファンド(豪ドルコース)」(野村AM)は欧州の高利回り債を豪ドルヘッジで買うという、やや解りにくいファンドですが、豪ドルの下落で好調に資金を集めたようで、25%の口数増加率となりました。
4位の「住信《選球眼》」は日本株に投資するアクティブファンドで、「実質的な価値よりも割安となっていると判断される株式に投資する」方針のファンドですが、これも18%と大幅増となりました。
以下に続くファンドは、オーストラリアの債券、中国株式、高金利通貨の短期債、世界や米国の不動産投資信託、日本の割安株などです。どんな資産が人気か、注目されているか、と簡単には言えないほど、多種多様な投資対象で資金流入が見られました。
円に対して安くなっている豪ドル建ての資産や、大きく下げた中国株式、サブプライム・ローン問題からこちらも大きく値を下げた海外の不動産投資信託(REIT)、そして日本の株式など、あえて共通点を挙げれば、「大きく値下がりしている」点でしょう。
これは、投資信託の資金の流出入の情報が、開示までに時差があるため、次善の策として近い過去の資金流出入を推測するために使われる方法です。
ただ、口数そのものの増減を見るだけでは、どうしても規模の大きいメガファンドの動向が目立ってしまいますが、ファンドの規模に比較すると流出入した資金はさほど大きくない場合が多いのです。そこで今回は、巨大ではなくても、この状況下で資金が流入しているのはどんなファンドなのかを見るために、前述の増加口数を11月末と12月末の平均口数で割った「口数増加率」でランキングしました。(10月までにスタートしたファンドで、12月末純資産額30億円以上のもの。DC、ラップ、SMA専用ファンドを除く)。
口数増加率12月上位45ファンドの詳細なランキングをPDFで開く
正反対のブル・ベア両方に資金流入
Top5のうち3本が前回取り上げたブル・ベア型、マネープールなどでした(1月8日の当欄参照)。
第1位は、日本の株価が下落すると基準価額が上昇するベア型ファンドの「新光Wベア・日本株オープンII」(新光投信)が、口数増加率98%と、12月中に倍増しました。日本株ベア型は、6位にも入っています。
興味深いのは、ベア型ファンドとは全く逆に、日本株が上昇すると基準価格が上昇することを目指すブル型ファンドである「新光Wブル・日本株オープンII」も、増加率22%で3位に入っていることです。同じ1か月の間に、ベア型も、ブル型も売れたわけです。
日々の株価の動きが、大きく上昇や下落を繰り返すなど、乱れていることから、株が上がると目先ですぐに下がることを見越してベア型を、株が下がるとまたすぐに多少は上がることを見越してブル型を買うということでしょうか。これらのファンドは、短期で一直線に対象とする資産が値上がりまたは値下がりすると、効率的な投資となります。ですから、昨今のような値動き幅の大きい時期に、超短期で投資をして「楽しむ」投資家にとっては、便利なツールとなります。
長期投資家なら、荒海にも船出できる
こうした短期投資家の「お楽しみ」は資産形成の運用手段とは別ですが、長期投資の点から注目すべきは、その他の種類のファンドの動向です。
第2位の「欧州ハイ・イールド・ボンド・ファンド(豪ドルコース)」(野村AM)は欧州の高利回り債を豪ドルヘッジで買うという、やや解りにくいファンドですが、豪ドルの下落で好調に資金を集めたようで、25%の口数増加率となりました。
4位の「住信《選球眼》」は日本株に投資するアクティブファンドで、「実質的な価値よりも割安となっていると判断される株式に投資する」方針のファンドですが、これも18%と大幅増となりました。
以下に続くファンドは、オーストラリアの債券、中国株式、高金利通貨の短期債、世界や米国の不動産投資信託、日本の割安株などです。どんな資産が人気か、注目されているか、と簡単には言えないほど、多種多様な投資対象で資金流入が見られました。
円に対して安くなっている豪ドル建ての資産や、大きく下げた中国株式、サブプライム・ローン問題からこちらも大きく値を下げた海外の不動産投資信託(REIT)、そして日本の株式など、あえて共通点を挙げれば、「大きく値下がりしている」点でしょう。
— posted by サイト管理者 at 06:48 pm
日本一の歓楽街
Sat 10 Jan’09
日本一の歓楽街、新宿・歌舞伎町に、一風変わったボランティア団体がある。ホストたちが結成した「夜鳥の界」だ。路地のゴミ拾いなどの清掃活動を月に1回程度しているという。同会の発起人の一人、手塚真輝(てづか・まき=31)さんらと清掃活動をしながら話を聞いた。【長岡平助】
待ち合わせは午後5時、手塚さんが経営するホストクラブの一つ「アピッツ」。手塚さんはこの日、赤いネクタイに黒のスーツ姿で現れた。清掃活動もこの姿だという。ホストというと高級ブランドで身を固めたイメージがあるが「(スーツは)セールで買いました」と手塚さん。手塚さんは有名私立大学を中退後にホストの世界に飛び込み、20代の若さで独立した立志伝中の人物。しかし「(自分が売れたのは)『普通』だったからだと思います」と謙虚な姿勢を崩さない。「じゃあ(清掃活動に)行こう」とホストたちにかける声も、ずいぶん気さくな印象だ。
「普段は区役所通りやゴールデン街の清掃をする」という手塚さんの手には、半透明のごみ袋とステンレス製の火バサミ。振り返ると、細身の黒いスーツに身を包み、茶色に髪を染めたホストたち十数人が、同じような姿であとに続く。一見すると、かなり不思議な集団で、通りがかりの人たちの目も、どこか不審げだ。聞けば、周囲からは「偽善者」とののしられたり「おまえらの方がゴミだ」と絡まれることもあるそうだ。
「夜鳥の界」発足のきっかけは、2004年の新潟県中越地震だったという。「ホストは目立ったもん勝ち」と他店のホストともに被災者に400万円を寄付した手塚さんたち。しかし案に相違して、メディアに取り上げられることはなく、避難所の体育館に案内され、そこで被災者から「ありがとう」と言われただけだった。だが、この一言が手塚さんを変えた。「それまで『どうせ自分たちはホストだから』と色眼鏡で自分自身を見ていたんです。ホストだってよいことをすれば『そのこと』を見てもらえる」と気づかされた。半年後、手塚さんらは「夜鳥の界」を始めた。
小雨がちらつく天気の中、セットした髪や高そうなスーツが濡れるのも気にせず、黙々とごみを拾っていくホストたち。火バサミを持つ手が、寒さにかじかむ。これから店に戻って開店を迎えるというのに……手伝いながら不安になってくる。実際、多くのホストが、入店当初は首をかしげるそうだ。これに対して「清掃活動は(自分も含め、従業員たちへの)人間としての教育」と手塚さん。1月5日に発売した自伝的エッセイ「自分をあきらめるにはまだ早い」(ディスカバー・トゥエンティワン)では「『どうせ俺なんてホストだから』って、自分をあきらめる気持ちを少しでもやわらげて前をみてほしかった」とつづっている。この思いはやがて店内に浸透していき、今では「近所の飲食店の人から『ありがとう』と言われるとうれしい」というホストたちの声もある。
30分ほど街を歩き、店が入る雑居ビルに戻るころには、ごみ袋半分ほどのごみが集まった。大半はたばこの吸殻で、ほかには空き缶やお菓子の包み紙などが目についた。徐々に強くなる雨にもめげず、ごみの分別を行うホストたちの背中に、自然と頭が下がる。「無理に続けようとは思いません。『夜のロハス』とぼくらは言っていますが、自分のためにもなって人のためにもなると思って、気楽にやっていきたい」と手塚さんは語る。もし歌舞伎町で彼らに出会ったら、ぜひあたたかく見守ってほしい。
待ち合わせは午後5時、手塚さんが経営するホストクラブの一つ「アピッツ」。手塚さんはこの日、赤いネクタイに黒のスーツ姿で現れた。清掃活動もこの姿だという。ホストというと高級ブランドで身を固めたイメージがあるが「(スーツは)セールで買いました」と手塚さん。手塚さんは有名私立大学を中退後にホストの世界に飛び込み、20代の若さで独立した立志伝中の人物。しかし「(自分が売れたのは)『普通』だったからだと思います」と謙虚な姿勢を崩さない。「じゃあ(清掃活動に)行こう」とホストたちにかける声も、ずいぶん気さくな印象だ。
「普段は区役所通りやゴールデン街の清掃をする」という手塚さんの手には、半透明のごみ袋とステンレス製の火バサミ。振り返ると、細身の黒いスーツに身を包み、茶色に髪を染めたホストたち十数人が、同じような姿であとに続く。一見すると、かなり不思議な集団で、通りがかりの人たちの目も、どこか不審げだ。聞けば、周囲からは「偽善者」とののしられたり「おまえらの方がゴミだ」と絡まれることもあるそうだ。
「夜鳥の界」発足のきっかけは、2004年の新潟県中越地震だったという。「ホストは目立ったもん勝ち」と他店のホストともに被災者に400万円を寄付した手塚さんたち。しかし案に相違して、メディアに取り上げられることはなく、避難所の体育館に案内され、そこで被災者から「ありがとう」と言われただけだった。だが、この一言が手塚さんを変えた。「それまで『どうせ自分たちはホストだから』と色眼鏡で自分自身を見ていたんです。ホストだってよいことをすれば『そのこと』を見てもらえる」と気づかされた。半年後、手塚さんらは「夜鳥の界」を始めた。
小雨がちらつく天気の中、セットした髪や高そうなスーツが濡れるのも気にせず、黙々とごみを拾っていくホストたち。火バサミを持つ手が、寒さにかじかむ。これから店に戻って開店を迎えるというのに……手伝いながら不安になってくる。実際、多くのホストが、入店当初は首をかしげるそうだ。これに対して「清掃活動は(自分も含め、従業員たちへの)人間としての教育」と手塚さん。1月5日に発売した自伝的エッセイ「自分をあきらめるにはまだ早い」(ディスカバー・トゥエンティワン)では「『どうせ俺なんてホストだから』って、自分をあきらめる気持ちを少しでもやわらげて前をみてほしかった」とつづっている。この思いはやがて店内に浸透していき、今では「近所の飲食店の人から『ありがとう』と言われるとうれしい」というホストたちの声もある。
30分ほど街を歩き、店が入る雑居ビルに戻るころには、ごみ袋半分ほどのごみが集まった。大半はたばこの吸殻で、ほかには空き缶やお菓子の包み紙などが目についた。徐々に強くなる雨にもめげず、ごみの分別を行うホストたちの背中に、自然と頭が下がる。「無理に続けようとは思いません。『夜のロハス』とぼくらは言っていますが、自分のためにもなって人のためにもなると思って、気楽にやっていきたい」と手塚さんは語る。もし歌舞伎町で彼らに出会ったら、ぜひあたたかく見守ってほしい。
— posted by サイト管理者 at 02:26 pm
薩軍主力の北進を知らず
Sat 27 Dec’08
[編集] 高瀬付近の戦い
高瀬付近の戦い
戦争:
年月日:1877年
場所:
結果:官軍の勝利
交戦勢力
第1,2,3旅団(官軍) 薩軍
指揮官
野津鎭雄
乃木希典など 桐野利秋など
戦力
不明 約2800人
損害
‐ ‐
2月24日、第一旅団(野津鎭雄少将)と第二旅団(三好重臣少将)は相次いで南下中であった。久留米で木葉の敗戦報告を聞いた両旅団長は南下を急ぐ一方、三池街道に一部部隊を分遣した。第十四連隊(乃木少佐)は石貫に進む一方で高瀬方面へ捜索を出した。25日、第十四連隊は山鹿街道と高瀬道に分かれて進撃した。山鹿方面では第三旅団の先鋒1箇中隊の増援を得て24日に転進して来た野村忍介の5箇小隊と対戦することになったが、高瀬道を進んだ部隊は薩軍と戦闘をすることもなく高瀬を占領した。
この時の薩軍の配置はほぼ以下のようになっていた。
山鹿 ─ 野村忍介(5箇小隊)
植木 ─ 越山休蔵(3箇小隊)、池辺吉十郎(熊本隊主力)
伊倉 ─ 岩切喜次郎・児玉強之助ら(3箇小隊)、佐々友房ら(熊本隊3箇小隊)
これに対し、官軍の征討旅団は順次南関に入って本営を設け、ただちに石貫に派兵し、岩崎原に増援を送った。
官軍が高瀬川の線に陣を構築するのを見た岩切らは高瀬川の橋梁から攻撃を仕掛け、熊本隊は渡河して迫間・岩崎原を攻撃した。しかし、岩切らは石貫東側台地からの瞰射に苦しみ、熊本隊は増援を得た第十四連隊右翼に妨げられて、激戦対峙すること2時間、夜になって退却した。
2月26日、越山の3箇小隊は官軍の高瀬進出に対し、山部田と城の下の間に邀線を敷き、佐々らの熊本隊3箇小隊及び岩切・児玉らの3箇小隊は寺田と立山の間に邀線を敷いて高瀬前進を阻止しようとした。池辺の熊本隊主力は佐々らの部隊が苦戦中という誤報を得て寺田に進んだ。山鹿の野村の部隊は進撃を準備していた。この時、桐野・篠原・村田・別府らが率いる薩軍主力は大窪(熊本市北)に集結中だった。
薩軍主力は大窪で左・中・右3翼に分かれ、次の方向から高瀬及び高瀬に進撃しつつある官軍を挟撃する計画でいた。
右翼隊(山鹿方面) ─ 桐野利秋(3箇小隊約600名)
中央隊(植木・木葉方面) ─ 篠原国幹・別府晋介(6箇小隊約1,200名)
左翼隊(吉次・伊倉方面) ─ 村田新八(5箇小隊約1,000名)
これに対し官軍は、薩軍主力の北進を知らず、前面の薩軍が未だ優勢でないとの判断にもとづき、次のように部署を定めた。
第一陣
前駆 ─ 乃木希典少佐(4箇中隊)
中軍 ─ 迫田大尉(2箇中隊)
後軍 ─ 大迫大尉・知識大尉(2箇中隊)
第二陣
予備隊 ─ 長谷川中佐(4箇中隊)
山鹿方面守備隊 ─ 津下少佐(3箇中隊)
応援(総予備隊) ─ (2箇中隊、1箇大隊右半隊)
薩軍の右翼隊は未明、山鹿から菊池川に沿って南下し、玉名付近の官軍左翼を攻撃し、中央隊は田原坂を越え、木葉で官軍捜索隊と遭遇戦になり、左翼隊は吉次峠・原倉と進み、ここから右縦隊は高瀬橋に、左縦隊は伊倉・大浜を経て岩崎原に進出した。官軍は捜索隊の報告と各地からの急報で初めて薩軍の大挙来襲を知り、各地に増援隊を派遣するとともに三好旅団長自ら迫間に進出した。官薩両軍の戦いは激しく、三好少将が銃創を負ったほどの銃砲撃戦・接戦がおこなわれた。
午前10時頃、桐野率いる右翼隊は迂回して石貫にある官軍の背後連絡線を攻撃した。この時に第二旅団本営にたまたま居合わせた野津道貫大佐(弟)は旅団幹部と謀って増援を送るとともに、稲荷山の確保を命じた。この山を占領した官軍は何度も奪取を試みる薩軍右翼隊を瞰射して退けた。次いで、南下してきた野津鎮雄少将(兄)の兵が右翼隊の右側面を衝いたので、猛将桐野の率いる右翼隊も堪らず、江田方面に退いた。稲荷山は低丘陵であるが、この地域の要衝であったので、ここをめぐる争奪戦は西南戦争の天王山ともいわれている[3]。
右翼隊の左縦隊は官軍を岩崎原から葛原山に退けたが、中央隊は弾薬不足で退却した。この機に援軍を得た官軍中央諸隊は反撃に出た。西鄉小兵衛・浅江直之進・相良吉之助三小隊も敵前渡河を強行したりして高瀬奪回を試みたが官軍の増援に押され、日没もせまったので、大浜方面へ退却した。官軍も疲労で追撃する余裕が無かった。この方面の戦闘は激戦で西鄉小兵衛以下、薩軍諸将が戦死した。
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高瀬付近の戦い
戦争:
年月日:1877年
場所:
結果:官軍の勝利
交戦勢力
第1,2,3旅団(官軍) 薩軍
指揮官
野津鎭雄
乃木希典など 桐野利秋など
戦力
不明 約2800人
損害
‐ ‐
2月24日、第一旅団(野津鎭雄少将)と第二旅団(三好重臣少将)は相次いで南下中であった。久留米で木葉の敗戦報告を聞いた両旅団長は南下を急ぐ一方、三池街道に一部部隊を分遣した。第十四連隊(乃木少佐)は石貫に進む一方で高瀬方面へ捜索を出した。25日、第十四連隊は山鹿街道と高瀬道に分かれて進撃した。山鹿方面では第三旅団の先鋒1箇中隊の増援を得て24日に転進して来た野村忍介の5箇小隊と対戦することになったが、高瀬道を進んだ部隊は薩軍と戦闘をすることもなく高瀬を占領した。
この時の薩軍の配置はほぼ以下のようになっていた。
山鹿 ─ 野村忍介(5箇小隊)
植木 ─ 越山休蔵(3箇小隊)、池辺吉十郎(熊本隊主力)
伊倉 ─ 岩切喜次郎・児玉強之助ら(3箇小隊)、佐々友房ら(熊本隊3箇小隊)
これに対し、官軍の征討旅団は順次南関に入って本営を設け、ただちに石貫に派兵し、岩崎原に増援を送った。
官軍が高瀬川の線に陣を構築するのを見た岩切らは高瀬川の橋梁から攻撃を仕掛け、熊本隊は渡河して迫間・岩崎原を攻撃した。しかし、岩切らは石貫東側台地からの瞰射に苦しみ、熊本隊は増援を得た第十四連隊右翼に妨げられて、激戦対峙すること2時間、夜になって退却した。
2月26日、越山の3箇小隊は官軍の高瀬進出に対し、山部田と城の下の間に邀線を敷き、佐々らの熊本隊3箇小隊及び岩切・児玉らの3箇小隊は寺田と立山の間に邀線を敷いて高瀬前進を阻止しようとした。池辺の熊本隊主力は佐々らの部隊が苦戦中という誤報を得て寺田に進んだ。山鹿の野村の部隊は進撃を準備していた。この時、桐野・篠原・村田・別府らが率いる薩軍主力は大窪(熊本市北)に集結中だった。
薩軍主力は大窪で左・中・右3翼に分かれ、次の方向から高瀬及び高瀬に進撃しつつある官軍を挟撃する計画でいた。
右翼隊(山鹿方面) ─ 桐野利秋(3箇小隊約600名)
中央隊(植木・木葉方面) ─ 篠原国幹・別府晋介(6箇小隊約1,200名)
左翼隊(吉次・伊倉方面) ─ 村田新八(5箇小隊約1,000名)
これに対し官軍は、薩軍主力の北進を知らず、前面の薩軍が未だ優勢でないとの判断にもとづき、次のように部署を定めた。
第一陣
前駆 ─ 乃木希典少佐(4箇中隊)
中軍 ─ 迫田大尉(2箇中隊)
後軍 ─ 大迫大尉・知識大尉(2箇中隊)
第二陣
予備隊 ─ 長谷川中佐(4箇中隊)
山鹿方面守備隊 ─ 津下少佐(3箇中隊)
応援(総予備隊) ─ (2箇中隊、1箇大隊右半隊)
薩軍の右翼隊は未明、山鹿から菊池川に沿って南下し、玉名付近の官軍左翼を攻撃し、中央隊は田原坂を越え、木葉で官軍捜索隊と遭遇戦になり、左翼隊は吉次峠・原倉と進み、ここから右縦隊は高瀬橋に、左縦隊は伊倉・大浜を経て岩崎原に進出した。官軍は捜索隊の報告と各地からの急報で初めて薩軍の大挙来襲を知り、各地に増援隊を派遣するとともに三好旅団長自ら迫間に進出した。官薩両軍の戦いは激しく、三好少将が銃創を負ったほどの銃砲撃戦・接戦がおこなわれた。
午前10時頃、桐野率いる右翼隊は迂回して石貫にある官軍の背後連絡線を攻撃した。この時に第二旅団本営にたまたま居合わせた野津道貫大佐(弟)は旅団幹部と謀って増援を送るとともに、稲荷山の確保を命じた。この山を占領した官軍は何度も奪取を試みる薩軍右翼隊を瞰射して退けた。次いで、南下してきた野津鎮雄少将(兄)の兵が右翼隊の右側面を衝いたので、猛将桐野の率いる右翼隊も堪らず、江田方面に退いた。稲荷山は低丘陵であるが、この地域の要衝であったので、ここをめぐる争奪戦は西南戦争の天王山ともいわれている[3]。
右翼隊の左縦隊は官軍を岩崎原から葛原山に退けたが、中央隊は弾薬不足で退却した。この機に援軍を得た官軍中央諸隊は反撃に出た。西鄉小兵衛・浅江直之進・相良吉之助三小隊も敵前渡河を強行したりして高瀬奪回を試みたが官軍の増援に押され、日没もせまったので、大浜方面へ退却した。官軍も疲労で追撃する余裕が無かった。この方面の戦闘は激戦で西鄉小兵衛以下、薩軍諸将が戦死した。
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— posted by サイト管理者 at 05:41 pm
信徒たちの世話を行っていた
Fri 12 Dec’08
[編集] 東洋への出発
ザビエルがとった航路当初より世界宣教をテーマにしていたイエズス会は、ポルトガル王ジョアン3世の依頼で、会員を当時ポルトガル領だったインド西海岸のゴアに派遣することになった。ザビエルはシモン・ロドリゲスと共にポルトガル経由でインドに発つ予定であったが、ロドリゲスがリスボンで引き止められたため、彼は他の3名のイエズス会員(ミセル・パウロ、フランシスコ・マンシリアス、ディエゴ・フェルナンデス)と共に1541年にリスボンを出発した。ザビエルはアフリカのモザンビークで秋と冬を過して1542年5月6日ゴアに到着。同地に3年滞在し、そこを拠点にインド各地やマラッカなどに赴いて宣教活動を行い、多くの人々をキリスト教に改宗させた。
ザビエルはインドからマラッカに渡り、同地で宣教を行いながら、信徒たちの世話を行っていた。ここで1547年12月に出会ったのが鹿児島出身のヤジロウ(アンジローとも)という日本人であった。ヤジロウの話を聞いたザビエルの心の中で、まだキリスト教の伝わっていない日本に赴いて宣教したいという気持ちが強くなった。
[編集] 日本を目指し、そして到着
ザビエルは1549年4月15日、イエズス会員コスメ・デ・トーレス神父、フアン・フェルナンデス修道士、マヌエルという中国人、アマドールというインド人、およびゴアで洗礼を受けたヤジロウら3人の日本人と共にゴアを出発、日本を目指した。
中国のジャンク船に乗った一行は上川島を経て1549年8月15日(カトリックの聖母被昇天の祝日にあたる)に鹿児島(現在の鹿児島市祇園之洲)に上陸した。1549年9月には伊集院の一宇治城で薩摩の領主島津貴久に謁見し、宣教の許可を得た。ザビエルは鹿児島で布教する日々の中で、福昌寺の住職、忍室(にんじつ)との宗教論争を行った。ここで後に日本人初のヨーロッパ留学生となる鹿児島のベルナルドなどに出会った。
1550年になると、かねてから都に上ることが目標であったザビエルの一行は、島津貴久のはからいで平戸へ向かうことができた。そこでも宣教活動を行っていたが、ザビエルは平戸の信徒の世話のためにトーレス神父を残して、鹿児島のベルナルド、フェルナンデス修道士と共に都を目指した。
確認できております。
ザビエルがとった航路当初より世界宣教をテーマにしていたイエズス会は、ポルトガル王ジョアン3世の依頼で、会員を当時ポルトガル領だったインド西海岸のゴアに派遣することになった。ザビエルはシモン・ロドリゲスと共にポルトガル経由でインドに発つ予定であったが、ロドリゲスがリスボンで引き止められたため、彼は他の3名のイエズス会員(ミセル・パウロ、フランシスコ・マンシリアス、ディエゴ・フェルナンデス)と共に1541年にリスボンを出発した。ザビエルはアフリカのモザンビークで秋と冬を過して1542年5月6日ゴアに到着。同地に3年滞在し、そこを拠点にインド各地やマラッカなどに赴いて宣教活動を行い、多くの人々をキリスト教に改宗させた。
ザビエルはインドからマラッカに渡り、同地で宣教を行いながら、信徒たちの世話を行っていた。ここで1547年12月に出会ったのが鹿児島出身のヤジロウ(アンジローとも)という日本人であった。ヤジロウの話を聞いたザビエルの心の中で、まだキリスト教の伝わっていない日本に赴いて宣教したいという気持ちが強くなった。
[編集] 日本を目指し、そして到着
ザビエルは1549年4月15日、イエズス会員コスメ・デ・トーレス神父、フアン・フェルナンデス修道士、マヌエルという中国人、アマドールというインド人、およびゴアで洗礼を受けたヤジロウら3人の日本人と共にゴアを出発、日本を目指した。
中国のジャンク船に乗った一行は上川島を経て1549年8月15日(カトリックの聖母被昇天の祝日にあたる)に鹿児島(現在の鹿児島市祇園之洲)に上陸した。1549年9月には伊集院の一宇治城で薩摩の領主島津貴久に謁見し、宣教の許可を得た。ザビエルは鹿児島で布教する日々の中で、福昌寺の住職、忍室(にんじつ)との宗教論争を行った。ここで後に日本人初のヨーロッパ留学生となる鹿児島のベルナルドなどに出会った。
1550年になると、かねてから都に上ることが目標であったザビエルの一行は、島津貴久のはからいで平戸へ向かうことができた。そこでも宣教活動を行っていたが、ザビエルは平戸の信徒の世話のためにトーレス神父を残して、鹿児島のベルナルド、フェルナンデス修道士と共に都を目指した。
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— posted by サイト管理者 at 06:57 pm













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